「『ひとりひとり』にして『大勢』であるために」市民連合応援団!リレートーク スピーチ用メモ(早稲田大学大隈講堂、2016年4月17日)

「ひとりひとり」にして「大勢」であるために

 熊本・大分を中心として九州で大きな地震が起き、4月17日朝の報道では現在でも17万人が避難所などでの避難生活を余儀なくされているということです。
 17万人もの人たちが昨夜、自宅を離れ、体育館などの冷たい床に身を横たえ、余震におびえながらひと晩をすごしたのです。その人たちには、いま聴いてほしいこと、言いたいことがいっぱいあると思います。
 大きな揺れが来てどんなに怖かったか。いまの避難生活がどんなにつらいか。いまいちばん何が必要か。誰に助けに来てもらいたいか。これから先どんなに心配は何か。訴えたいこと、話したいことはいくらでもあるでしょう。
 私は精神科医という仕事をやっています。精神科医は基本的に一回にひとりずつしか話を聴くことができません。私は、はじめて診察室を訪れた人にはだいたい30分くらいかけてお話を聴くことにしています。21世紀のいまになってもそのやり方です。
 もしいま避難している17万人に30分ずつお話を聴こうとしたら、どれくらいかかるのでしょう。ちょっと計算してみたら8万5千時間になります。24時間休みなく聴き続けるとしても、10年近くかかってしまう計算になります。そんなことはもちろんできません。でも、本当はひとりひとりに話を聴いてあげたい。
 「17万人が避難生活」。こ口にするとそれは1秒もかかりません。でもその人たちには、30分ずつ聴いて10年もかかるような、さまざまな思いがあるのです。いま避難している17万人を十把一絡げにしてはならないのです。
 ひとりひとりに、実はいろいろな思いや訴えがあるということを忘れない。私は、それが民主主義なのだと思います。民主主義とは、私たちがいつでも「ひとりひとり」でいられること、「ひとりひとり」として認められることなのです。
 そして、これは避難生活を送っている人に限ったことではありません。
 2016年3月1日現在で、日本には1億2692万人の人が住んでいます。九州で避難所にいる17万人の約750倍の人たちです。
 その人たちにも、言いたいことや聴いてほしいことはたくさんあるはずです。その声のすべてを誰かひとりが聴くことはできないでしょう。でも、だからといって、1億2692万人の国民を安易にひとまとめにしてはならないはずです。
 安倍政権は、国民が「ひとりひとり」であることを無視し、安易に十把一絡げにしようとする政権です。安倍総理はよく「選挙によって選ばれた政権」と言い、あたかも自分が国民全員の意思を担っていると思っているようですが、それも「十把一絡げ精神」です。「一億総活躍」などというデリカシーのかけらもない言葉にも、この精神が現れています。
 そして何より、問題なのが、最近、「9条を後回しにしてもまずここから」と言われるほど自民党が最初の改憲項目としようと力を入れている緊急事態条項です。自民党改憲草案では、緊急事態を宣言できるのは内閣総理大臣ただひとりとされ、いったん宣言されればひとことで言えばあとは何でもやり放題です。ここに至れば、「国民ひとまとめ」どころか、国民はひとまとめにされて握りつぶされるだけです。
 歴史学者の大江志乃夫が1978年に書いた『戒厳令』という本があります。これは日清・日露戦争関東大震災二・二六事件など日本近代史の重大時に必ず戒厳令が発動され、それによって、法秩序は一挙に覆り、権力がむき出しの形で民衆の前に立ちはだかってきた歴史を述べたもの、と出版社の説明にはありました。その前書きで、大江はこう言っています。
 「緊急事態法制は1枚のジョーカーに似ている。他の48枚のカードが形づくっている整然たる秩序をこの一枚がぶちこわす。」
 これは2016年に書かれた本ではありません。繰り返しますが1978年、いまから40年近く前に日清・日露戦争の時代を振り返って書かれたものなのです。
 それからさまざまな戦争を経て、大きな犠牲のもとで、ようやく私たちが手に入れた民主主義を、なぜいま、「1枚のジョーカー」によってぶちこわされなければならないのでしょうか。
 私たちは絶対にそんな暴挙を許してはならないのです。
 実際には、1億2692万人ひとりひとりの声を反映させた政治、社会を実現させることはできないかもしれません。
 でも、たとえそうだとしても、私たちは基本は「ひとりひとり」だということを忘れてはならない。そしてなるべく、その「ひとりひとり」の声を聴くことができる政治、とくに、何かのときに切れる手持ちのカードをあまり持っていない、弱い立場の人やマイノリティの人たちの声がより大切にされる政治でなければなりません。
 しかし、現実には残念ながらその反対のことばかりが起きています。
 今日の午後も、岡山市在日韓国人、在日朝鮮人を貶め、罵り、日本から出て行けと叫ぶ、差別扇動デモ、いわゆるヘイトスピーチデモが行われました。先ほどネットでその様子を見ましたが、差別主義者たちは今日も在日の方々をひとくくりにして、「出て行け」などと叫びながら、自分たちこそが愛国者だという顔をして岡山の街をねり歩いたようです。
 「ひとりひとり」なんて大切にしなくてよい、その社会の全体の空気の中で、弱い者は口をつぐむべきだという雰囲気が、残念ながら政権からストリートにまで蔓延しているのです。
 とはいえ、希望の光はあちこちで灯っています。
 岡山にも、卑劣なヘイトスピーチデモを止めようとして、多くの人たちが大阪や名古屋から、東京そして新潟などからも、自費で抗議活動に出かけました。
 今日もこうして民主主義のために、多くのみなさんが集まってくれています。
 九州で避難所にいる17万人ひとりひとりの方々の気持ちに寄り添いながら、各地でひとりひとりを大切にするために闘う人たちのことを心に覚えましょう。
 私たちは手をつなぎ、心をつなげる仲間であると同時に、それぞれが大切な「ひとりひとり」なのです。遠くで闘う人と手をつなぐ。そして近くで傷ついている人を見捨てない。
 大勢だけど「ひとりひとり」。「ひとりひとり」だけど大勢。これが私の、「民主主義ってなんだ?」という問いへの答えです。民主主義をあきらめずにこれからもいっしょに歩んで行きましょう。